s



漢詩かるた  

 

(佐賀県漢詩連盟刊行)

漢詩かるた・詳細

※漢詩かるたを希望の方⇒漢詩かるた・注文

★漢詩かるた 45首 漢詩人(作者)略歴一覧

 
 

1:盧僎 2:孟浩然 3:王之渙 4~6:王維 7~12:李白
13~14:杜甫 15:韋応物 16:王建 17:柳宗元 18:劉禹錫
19:賈島 20:于武陵 21:李清照 22:袁凱 23:王翰
24:王昌齢 25~26:高適 27:岑参 28:張継 29:李益
30:白居易 31:杜牧 32:李商隠 33:王安石 34:蘇軾
35:朱熹        
36:智雲法師 37:石井鶴山 38:草場佩川 39:西鼓岳 40:草場船山
41:袋久平 42:高取西渓 43:志田林三郎 44~45:石川忠久  
         
         


 ※上記の漢詩人(作者)名をクリックすると、その人の略歴にページが移ります

 ※作者の前にある数字は「漢詩かるたのご案内」裏面の「漢詩かるた45首一覧」の数字
  と対応しています。
 ※漢詩かるた・45首の訳についてはこちら⇒漢詩かるた・意訳(全)
 ※随時更新してゆきます。

1:盧僎(初唐・生没未詳)


臨漳(河北省)の人。孟浩然と交際がある。はじめ聞喜の尉、ついで中央の集賢院学士、吏部員外郎となる。現在、14首が残る。   

2:孟浩然(盛唐・689~740)

名は浩。字は浩然。襄陽(湖北省)の人。科挙に及第できず、各地を放浪し、鹿門山に隠棲したりという生活を送る。40歳の頃、都に出て、王維・張九齢らと親交を結んだ。のち、張九齢が荊州に左遷された時、招かれて属官となったが、張九齢の退官とともに辞任した。開元28年(740)、襄陽で病没。背中に腫物ができたが、治りかけた頃、王昌齢が訪ねてきたのが嬉しく、羽目を外して容態が悪化したために死んだという。王維とともに「王孟」と並称される自然派詩人。『孟浩然詩集』がある。



3:王之渙(盛唐・688~742)

字は季陵。絳郡(山西省)あるいは薊門(河北省)の人といわれる。若い頃は都で若者たちと剣を振り回したり酒を飲んだりの生活であったが、行いを改めて詩文の道に励み、十年にして名声を得た。王昌齢・高適と親交を結び、辺塞詩に優れたが、現在6首のみ残る。


4~6:王維(盛唐・699~759)

字は摩詰。太原(山西省)の人。生没を701~761とする説もある。子供の頃から聡明で、15歳で科挙の準備の為に都へ出た。画・書・楽にも優れた才能を持ち、都の王侯貴族らの寵児となった。21歳で進士に及第。官僚として働くとともに、都の南藍田山の麓に別荘(川荘)を求め、半官半隠の生活をした。755年の安禄山の乱の時、賊軍に捕まり、強制的に官職に就けられたことが、乱平定後に問題となったが、天子を思う詩を作っていたことや弟の嘆願もあり、官位を下げられただけですんだ。その後、尚書右丞まで進んだ。『王右丞集』などがある。


7~12:李白(盛唐・701~762)

字は太白。蜀(四川省)の人。酒仙翁・詩仙と称された。10歳の頃には、諸子百家を読み詩を作る。19歳の頃、任侠の仲間に入り、峨眉山にこもって隠者と生活を共にした。25歳の頃、蜀を出、安陸(湖北省)に来て元宰相の孫娘と結婚。10年間此の他にとどまる。その後、山東に行き、徂徠山に孔巣父らと会合、酒をほしいままに飲み、「竹谿の六逸」と呼ばれる生活を送った。42歳の時、宮中に召されて長安に入った。彼の文を見た賀知章は「天上の謫仙人なり」と称賛したが、高力士らの讒言より都を追放された。その後、洛陽で杜甫と出会い、詩を賦し酒を飲み交友を深めた。杜甫と別れた後は各地を放浪。安禄山の乱(755年)が起こり、玄宗皇帝の息子永王に招かその幕僚となるが、反乱軍とみなされ、尋陽(江西省)の獄につながれ流罪となったが、後に大赦により釈放された。その後、長江を下り、当塗(安徽省)の県令のもとに身を寄せたが、病死した。一説には、長江に舟を浮かべ酒を飲んで遊んでいたところ、川の水面に映る月をとろうとして溺死したともいわれる。


13~14:杜甫(盛唐・712~770)

字は子美。襄陽(湖北省)の人。杜甫の家は代々官吏で、祖父に詩人杜審言がいる。7歳の頃から詩を作り始めたという。20~35歳の頃まで呉・越・斉・趙の間を遊歴。この間に、李白・高適らと交わりを持った。科挙に何度か受験するが及第せず、長安で困窮生活を送った。755年、44歳で下級官吏となるが、安禄山の乱に遭い、翌年賊軍に捕えられ長安に軟禁、9か月後脱出して粛宗皇帝に拝謁し、左拾遺(天使の落ち度を諌める)を授けられた。しかし、職を越えた行いして皇帝の不興を買い、華州(陝西省)に左遷、そこで大飢饉に遭い、官を捨て妻子を伴って流浪の旅に出た。760年、成都尹剣南節度使・厳武の招きで成都(四川省成都市)に赴き、工部員外郎となり、郊外に浣花草堂を建てて住んだ。しかし、保護を与えていた厳武の死とその後の蜀地方の混乱から家族とともに成都を離れ、貧困と病苦に悩まされながら、770年、衡州(湖南省衡陽市)から(湖南省県)へと向かう途中59歳で死んだ。杜甫はあらゆる詩形に通じ、古詩・律詩を得意とした。特に律詩には定評があり、「李絶杜律」といわれ、李白の「詩仙」に対し、「詩聖」と称された。また、杜牧と区別して、杜甫を「老杜」、杜牧を「小杜」と呼ぶ。詩集に『杜工部集』があり、1450余首が収められている。


15:韋応物(中唐・737?~?)

字は未詳。京兆長安(陝西省西安市)の人。名門の出で、若い頃は玄宗皇帝の三衛郎(近衛兵)として仕えた。安禄山の乱で失職し、勉学に励む。代宗皇帝の時、官吏に就いたが病気のために辞職し、都の善福寺で静養。781年の召されて比部員外郎となり、さらに(安徽省)・江州(江西省)の刺史を歴任して善政を施し名をあげた。その後都に呼び戻されたが、786年に蘇州(江蘇省)刺史に転出。そこでも人望を集め、引退してからも蘇州にとどまった。詩風は王維・孟浩然の流れをくみ、柳宗元とあわせて「王孟韋柳」と呼ばれ、特に白居易は韋応物を敬慕している。『韋蘇州集』が伝わり、詩は565首ある。


16:王建(中唐・?~830?)

字は仲初。潁川(河南省)の人。進士に及第した後、渭南(陝西省)の尉、陝州の司馬を歴任し、数年間辺境にも従軍した。帰ってから咸陽原上(陝西省)に住む。韓愈の門下で、白居易・劉禹錫とも親交があった。同門の張籍とともに楽府体に優れ、「張王の楽府」と併称された。宮詞(宮中の女性の心情・生活をうたった詩)の名手。『王建詩集』がある。


17:柳宗元(中唐・773~819)

字は子厚。河東(山西省)の人と称するが、長安に生まれ育った。少年の頃から神童と呼ばれ、21歳の若さで進士に及第。校書郎・監察御史裏行等を歴任する。33歳の時、王叔文・韋執誼らの引立てで順宗皇帝の信任を得、礼部員外郎となり、彼らとともに政治改革に乗り出すが一年足らずで挫折、邵州(湖南省)刺史さらに柳州(広西壮族自治区)刺史と左遷され、中央に復帰することなく、柳州で死んだ。山水詩にすぐれ、唐代自然派詩人の代表とされる。『柳河東集』がある。


18:劉禹錫(中唐・772~842)

字は夢得。中山(河北省)の人。二十一歳の若さで柳宗元とともに進士に及第。 のち博学宏詞科にも合格。一時は節度使の幕僚もつとめたが、中央政界にのりだすと王叔文一党の朝政改革に参画する。永貞元年(805)の政変で朗州(湖南省)司馬に左遷、中央に戻されたが、玄都観の花見の宴で読んだ詩が当局誹謗の意ありとされ、またも連州(広東省)刺史に左遷された。死後礼部尚書を追贈された。柳宗元と無二の親友であっただけでなく、白居易とも親交があった。晩年は洛陽で詩を唱和した。『劉夢得文集』三十巻・『外集』十巻がある。

19:賈島(中唐・779~843)

字は浪(閬)仙。范陽(河北省涿州市)の人。出家して無本と号していたが、韓愈の影響によって還俗し、大和(872~835)の末、長江(四川省蓬渓県)主簿となった。「推敲」のエピソードで有名な苦吟詩人。孟郊と「郊寒島痩」と称される。『長江集』十巻がある。

20:于武陵(晩唐・810~?)

名は鄴。杜曲(陜西省西安市の南郊)の人。宣宗の大中(847~860)年間に進士に及第したが、役人づとめが性に合わず、琴と書物をたずさえて諸国を歴遊した。洞庭湖、荘江一体をめぐり、その地の風物をこよなく愛した。のちに、崇山(河南省洛陽市の南)にこもって隠遁した。

21:李清照(宋・1084~1151?)

女流詞人。号は易安居士。齊州章丘(山東省済南)の人。詩文書画に秀でた才女で、『金石録』の著者として知られる趙明誠に嫁し、趣味と学問の生活ともにしたが、北宋の滅亡の混乱期に夫に死なれ、江南地方に流寓して卒した。当時流行の歌辞文芸、詞の作者として有名で、警抜な表現と優雅な風格を備える。詞集は『漱玉詞』一巻。詩文を併せた新しい輯本
『李清照集』がある。

22:袁凱(明・生没年未詳)

字は景文。号を海叟という。松江の華亭(江蘇省)の人。元の末年、府の役人となったが、
博学能弁で、しばしば議論して、その場の人を屈服させる人柄であった。明の洪武三年
(1370)、御史となる。上奏が認められ、武臣たちのために名士を招いて経書を講義させ
た。詩酒の宴で、「白燕詩」を即座に作ってから、人々は袁白燕と呼ぶようになった。
『海叟詩集』四巻がある。

23:王翰(盛唐・678?~726?)

字は子羽。并州晋陽(山東省太原市)の人。若くして豪邁、才を恃んだ。慶雲元年(710)進士に及第。張説の庇護のもとで駕部員外郎となったが、張説の失脚に伴い、汝州(河南省汝州市)の市史に貶され、最後は道州(湖南省道県)司馬に貶されて卒した。

24:王昌齢(盛唐・698?~755?)

字は少伯。京兆長安(陜西省西安市)の人。あるいは江寧(江蘇省南京市)の人とも、また太原(山西省)の人ともいう。開元15年(727)の進士。秘書省校書部かた、天宝元年
(742)江寧の丞に出され、晩年竜標(湖南省黔陽県)県尉に貶された。七言絶句の辺塞詩、閨怨詩を得意とた。『王昌齢詩集』五巻、『詩格』『古楽府解題』などがある。

25~26:高適(盛唐・700前後?~765)

字は達夫。滄州渤海(山東省浜州市)の人。哥舒翰の掌書記となり、安禄山の乱が起こると左拾遺、観察御史となって哥舒翰を補佐した。蜀州(四川省崇慶県)刺史、西川節度使となって蜀に赴任した時、杜甫と旧交を温め、援助をした。のち都に帰り、刑部侍郎、左散騎常侍となった。『高常侍集』八巻がある。

27:岑参(盛唐・715~770)

南陽(河南省)の人また一説に江陵(河北省)の人。天宝三載(744)の進士。安西節度使高仙芝の掌書記、安西北庭都護封常清の節度判官となり、至徳二載(757)杜甫の推薦で右補闕となった。のち考功員外郎などを歴任して、永泰元年(765)嘉州(四川省楽山市)の刺史となった。辺塞詩の第一人者。『岑嘉州詩』七巻がある。

28:張継(中唐・生没年未詳)

字は懿孫。襄州(湖北省襄陽県)の人。天宝十二載(753)の進士。官は、塩鉄判官などを経、大暦中(766~779)、検校祠部郎中に至った。

29:李益(中唐・748~827)

字は君虞。隴西姑蔵(甘粛省武威市)の人。大暦四年(769)の進士。河北の節度使などに幕僚として暮らし、のち秘書少監、集賢殿学士となり、大和(827~835)の初め礼部尚書となった。嫉妬深いため「妬癡尚書李十郎」と呼ばれたという。『李君虞詩集』がある。

30:白居易(中唐・772~846)

字は楽天。下邽(陜西省渭南)の人。自らは先祖の出身地を称して太原(山西省太原)という。二十九歳の時、最初の受験で進士に及第し、その後試判抜萃科に及第した。元稹とともに校書郎を授けられる。宰相武元衡の暗殺事件が起きた際に、犯人を捕らえるよう上奏したことが越権行為としてとがめられ、江州(江西省九江)の司馬に左遷された。都に戻されるが朝廷という権力争いの場から退避するため洛陽での職を希望した。刑部尚書で官を引退し、没後尚書右僕射(宰相の官)を追贈された。詩は広くもてはやされ国外にも及んだ。詩文集に『白氏文集』七十一巻がある。

31:杜牧(晩唐・803~852)

字は牧之。号は樊川。京兆長安(陜西省西安市)の人。太和二年(828)、進士に及第、さらに賢良方正科にも及第してエリート官僚としての第一歩を踏み出した。洪州(江西省南昌市)、宣州(安徽省宣城県)、揚州(江蘇省揚州市)に赴き、太和九年(835)、三十三歳の若さで観察御史に抜擢され、洛陽にてその任に就く。病気の弟一家を抱え、収入の多い刺史(長官)として地方に転出することを願い出る。大中六年(852)、中書舎人にすすみ、十一月に没した。死ぬ間際になってそれまでに作った詩文の大半を焼き捨てる。晩唐第一の詩人である。「小杜」と呼ばれる。『樊川詩集』四巻、別巻一巻、『外集』一巻、また『孫子』の注もある。

32:李商隠(晩唐・813~858)

字は義山。号は玉谿生。懐州河内(河南省沁陽県)の人。若いころから令孤楚(牛僧孺一派)の知遇を得、その巡官となるが、進士に及第すると、楚の政敵である王茂元(李徳裕一派)の娘をめとった。当時朝廷では「牛李の党争」という対立抗争の最中であったが、どちらにも属さず不遇な生涯を送った。滎陽(河南省)の地で客死した。『李義山詩集』三巻、
『樊南文集』八巻などがある。

33:王安石(北宋・1021~1086)

字は介甫。江西省の臨川を本籍とする。文章家としても著名で、唐と宋の名文家八人(唐宋八大化)の一人に数えられている。仁宗の慶暦二年(1042)、二十二歳の若さで科挙に及第しながらも、自ら志願して地方回りの官僚を務めていた。この時の農民生活の見聞が、その後の革新的な諸施策(新法)に反映することになった。新法党と旧法党の対立は、宋王朝の命脈を縮めることとなった。『臨川先生文集』百巻がある。

34:蘇軾(北宋・1036~1101)

字は子瞻。眉州眉山(四川省眉山県)の人。父の蘇洵、弟の蘇轍と共に散文の大家として知られ、三人とも唐宋八大家に数えられる。二十二歳の時、進士に弟と共に及第した。新法に批判的意見を示したことから地方官の任が続いた。四十四歳、湖州(浙江省呉興県)の知事の時、朝廷の政治を誹謗した詩があるとして捕らえられ、黄州(湖北省黄岡県)へ流罪となった。その後も政局の変化に伴い都と地方を行き来している。日常の平凡な事柄をも詩の題材とする新しい詩境を開いた。詩文集に『東坡七集』がある。

35:朱熹(南宋・1130~1200)

字は元晦。普通、人を尊称する時は、字か号で呼ぶものであるが、朱熹の場合は、朱子と呼びならわしている。徽州婺源(江西省)の出身。紹興十八年(1148)、管理登用試験に及第してより、四代の皇帝に仕えた。寧宗の時、実権を握っていた韓侂胄の憎しみを買い、職を免ぜられた。その上、朱熹の学問は偽学と認定され、著述は発禁の処分を受けるなど、非常な迫害を受けた。今日では、詩人としてよりも哲学者として名を知られており朱子学とか宋学と呼ばれている。

 

36:智雲法師(?~1782)

肥前・多久の人。俗姓は中山氏。智雲は字、法印は宏弁、別号瑞穀、守玄院主と称す。多久領桐野山妙覚寺中興第十二世。比叡山に登り、記室を務める。よく修行に励んだ。領主多久茂堯の要請により、江戸より帰郷、妙覚寺住職となる。黄檗宗の大潮元皓と親しかった。『桐野遺稿』を著す。

 

37:石井鶴山(1744~1790)

肥前・多久の人。名は有、号は鶴山。貧家に生まれたが学業に努め、17歳で郷校・東原庠舎都講となる。京都で高葛坡に学び、特に漢詩文に秀でた。後に佐賀藩藩主・鍋島治茂に才能を認められ、治茂の伴講さらに藩校・弘道館助教となる。治茂の命により、肥後・薩摩両藩の藩校を調査・視察し、創立当初の弘道館の教育・運営に尽力した。また諸国を歴訪し、当時一流の文化人らと交流を持ったが、治茂とともに帰郷の途中、大坂で病死。著書に『鶴山遺稿』。

 

38:草場佩川(1787~1867)

肥前・多久の人。名は韡、初め珮川、後に佩川と号す。郷校・東原庠舎に入り、15歳で句読師補となる。佐賀藩藩校・弘道館で古賀穀堂、さらに江戸昌平黌で古賀精里の門下となる。朝鮮通信使が対馬に渡った時、精里に従って応対、通信使から「天下の奇才」と称される。帰郷後、28歳で東原庠舎教授。さらに佐賀藩藩校・弘道館で教え、73歳で同校教授となる。幕末「天下の三大家」の一人。生涯二万首といわれる漢詩を残し、絵画にも秀でた。著書に『珮川詩鈔』(草場船山・西山編)・『津島日記』・『対礼余藻』・『山野一善』等。

 

39:西鼓岳(1803~1857)

肥前・多久の人。名は賛、号は鼓岳・芳鄰舎。姉は草場佩川の妻。郷校・東原庠舎で佩川に学び、佐賀藩藩校・弘道館に進む。領主の命により、江戸へ遊学、昌平黌・古賀庵の門下となる。帰郷後、東原庠舎の教職に就く。漢詩に秀で、広瀬淡窓から鎮西誌家三傑の跡を継ぐ者と称された。肥前・鹿島藩主の招きで鹿島藩藩校・徳譲館に出講。諫早からの帰途、大雪の降る多良岳へ入り凍死した。55歳。著書に『鼓岳遺稿』・『芳鄰舎詩鈔』(高取西渓編)。

 

40:草場船山(1819~1887)

肥前・多久の人。名は廉、号は船山。初め郷校・東原庠舎に学び、領主の命により、江戸へ遊学、昌平黌・古賀庵の門下となる。帰郷後、東原庠舎教授。江戸のほか、京都・大坂にも遊学し、梁川星巌・篠崎小竹らに学ぶ。維新以後、肥前田代の代塾・伊万里の本立堂で教え、さらに京都では敬塾で人材育成に努めた。著書に『船山遺稿』(草場金台編)・『皇朝歴代歌』・『国史管見』等。


41:袋久平(1849~1873)

肥前多久の人。旧姓古賀氏。袋家養子。初め郷校・東原庠舎、さらに選ばれて長崎の佐賀藩英学伝習所で学ぶ。東京開成学校入学後、選抜され英国さらに独逸に留学するも、中途で病を得、英国経由で帰国を図るが、英国にて24歳で病死。


42:高取西渓(1850~1927)

肥前・多久の人。旧姓鶴田氏。名は伊好、号は西渓。高取家養子。郷校・東原庠舎に学び、草場佩川を師とする。東京に出て慶応義塾に入り、さらに鉱山寮で鉱山学・採炭技術を学ぶ。卒業後、高島炭鉱に勤務。さらに佐賀北波多村の芳ノ谷炭鉱・相知炭鉱に着手。佐賀県石炭同業組合長、高取鉱業株式会社社長。肥前の石炭王と称される。教育・社会事業等に多額の寄付をする実業家で、漢詩を能くする文化人でもあった。
『西渓遺稿』を残す。唐津市に残る旧高取邸は国登録文化財。


43:志田林三郎(1855~1892)

肥前・多久の人。幼少より神童といわれ、特に数学に優れた。郷校・東原庠舎に学び、12歳で史記・漢書に通じた。佐賀藩藩校・弘道館に進み、16歳で上京、工部大学校を首席で卒業。英国・グラスゴー大学に官費留学し、「帯磁率に関する研究」(英文)でクレランド金メダルを受賞。帰国後、東京帝国大学教授・東京電信学校校長、わが国で最初の工学博士となる。将来、電気工学が著しく発展することを予見し、電気学会を設立したが、34歳で死去。

 

44~45:石川忠久(1932~)

東京都出身。号は岳堂。中国文学者。東京大学中国文学科卒業、同大学院博士課程了。文学博士。桜美林大学さらに二松学舎大学教授、二松学舎大学学長を経て、現在、桜美林大学・二松学舎大学名誉教授、財団法人斯文会理事長、全国漢文教育学会会長、全日本漢詩連盟会長。2008年に瑞宝中綬章受賞。近年の主な著書に、『日本人の漢詩』・『新漢詩の世界CD付』・『漢詩人 大正天皇』(共に大修館書店)・『漢詩への招待』(文春文庫)・『東海の風雅 日本漢詩の心』(研文出版)等、多数。


※漢詩かるたは、在庫切れのため、現在販売致しておりません。

参考文献:『漢詩鑑賞事典』石川忠久編(講談社学術文庫)
    『多久市史』(人物篇)多久市史編纂委員会
    『英国留学生の墓標』古賀節子著(中央公論事業出版)
    『丹邱邑誌漢文資料講解』荒木見吾著(文献出版)
 
 
新鮮な生そばを貴方のお手元にお届け致します

フリーダイヤル 0120-76-2455

電話 0952-76-2455

FAX 0952-76-3293